墜落避けて低空飛行

ホワイト企業のはずだけど仕事が酷く憂鬱。疲れ切ってしまわないように日々試していることを書くブログ

家族の笑顔が見たくて「役に立てる」ことにこだわっていた

こんばんは。

瞑想や内省がやりやすくなってきました。

困ったことに、夜寝る時が静かで外からの刺激が無くなるせいか心の整理をしてしまいます。

寝ようとしていたのに泣いてしまったため、吐き出すために記事を書きます。

 

私が調子を崩す時は、仕事で「役に立てていない」、「私はいなくてもいいのではないか」と考えてしまうときです。

他の人ができるから私はやることがない、別にいなくてもいいのではないかと思い始めるとものすごく居心地が悪くなります。そして消えたくなります。

学生の頃のイベントの準備などでもよく感じていたことでもあり、学生の頃はその場から離れていれば、つまり逃げればやり過ごせたのですが、社会人になるとその場を離れることは難しくなります。それに給料をもらっているのに何もできない罪悪感も大きいです。誰かに何かを言われているのではないかと不安も強くなります。将来のキャリアも心配になります。

できることがなくても耐えてその場に居続けるというのも仕事を続けていくのに必要だとわかっているのですが耐えきれません。

どうしてこんなに「役に立てる」ことにこだわるのか、必要とされるだけの技や力をもつことにこだわるのだろうとふと思いました。

 

原点は、家族の笑顔が見たかったから、家族みんなが機嫌良く過ごしてほしかったからでした。子供の頃いつもそう思っていたことを思い出しました。

私が小学生あたりから父と母の仲はあまり良いとは言えませんでした。父はいつ癇癪を起こすかわかりません。母も気を塞ぐ様子を見せることが多くなっていきました。

それでも、勉強ができれば喜んでくれましたし、気が利いたことをすれば喜んでくれました。でも本音は緊張していて辛かったです。いつも家族の機嫌に注意していました。

気に食わないことをするととことん「お前はダメだ」「外に出てもやっていけない」と言われました。

家族みんなを笑顔にすることはできませんでした。年々家族仲は悪くなっていきました。

このことは私の中で「失敗体験」として残っており、終わっていないのだと思います。

だから家族の外でも、自分が必要とされていない、何かできそうなことはない、失敗しそうな場面に出会うと体も心も家族との関係を再現するのだと思います。

 

大人になった今なら、他人の機嫌をとる必要はない、自分の機嫌は自分でとるものだ、と知っています。ただ子供の頃の「家族みんなに笑顔でいてほしい、仲良くしてほしい」とただただ願っていた気持ちは否定せずそのままにしたいと思いました。

そう思うのは自然なことです。何を願うかは自由だけれど、嫌な気持ちになるならやはり離れないと自分が壊れてしまいます。

 

家族の仲が問題なかったら、親が頼りになる人だったら、私はどうしていたのだろうか。それを想像することがこれからの行動パターンを変えるきっかけになる気がしています。今は全然想像できませんが。

「異なる前提を想定する」ということは行動パターンを変える前に必要なことなのかもしれません。経験していないことを想像するのは難しいことですが、やらないといつまでも鬱々とした気分のままなのかもしれません。

行動理由が人の機嫌なのは本当につらいです。あまり続くことはありません。人の機嫌は他人にはわかりません。なんでか知りませんが相手が不機嫌なままならどんどんやる気もなくなってきますし、失敗体験が重なっていきます。

「人の機嫌を良くする」以外の行動する動機を見つけたいです。

「自分の体を不健康な状態にしない、健康な状態を保つ」ことが行動する動機であり理由になるのかな。これだけ体調を崩していますし。

 

ありがとうございました。